言葉と砂嵐、そして燃え盛る炎の中で~舞台『マーキュリー・ファー』

 2月2日、世田谷パブリックシアターにて。作品そのものは2015年に一度観劇しており、今回はキャストを一新し7年ぶりの再演となる。
 
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 かつて私は、この作品を見るのは生涯一度でいいと思っていた。*1あの日シアタートラムで受けた傷はいつしか聖痕のように、触れるたび畏怖にも似た感情を呼び起こすものとなっていた。しかし二度目の観劇を終えて、私はこの作品にもう一度出会えて良かったとしみじみ思っている。今回の再演では、あの時目の前の出来事に目を見開くだけで精いっぱいだった視界が広がり、『マーキュリー・ファー』という物語そのものを見つめ、そのタイトルが意味するとおりのものを感じられたように思うのだ。
 
※以下とても長いです。そしてとてもネタバレしております。※
 
 

 

 

 舞台は近未来のイギリス、イーストエンド。暴力とドラッグが横行する荒廃した世界で生きる兄弟、エリオット(吉沢亮)とダレン(北村匠海)は、幻覚を見せる『バタフライ』と呼ばれる薬物を売りながら、時折裕福な顧客が歪んだ願望を叶えるための『パーティー』を開いて糊口を凌いでいる。知恵が回り、生き抜くための冷酷さと弟への深い愛情を併せ持つ兄エリオットと、バタフライ漬けでほとんどの記憶を失っているが無邪気に兄を慕う弟ダレン、彼らのボスでパーティーの首謀者であるスピンクス(加治将樹)と、その弟でエリオットの恋人であるローラ(宮﨑秋人)、ひょんなことからパーティーに加わることになるナズ(小日向星一)といった人物を中心に物語は展開する。
 
 今回強く感じたのは、この作品における言葉の重要性である。開幕早々に浴びせられるエリオットの嵐のような罵倒に観客は戸惑い、この痛みに満ちた世界の洗礼を受ける。その感覚は、吉沢エリオットの第一声によって鮮明に蘇ってきた。それは吉沢さんの声色があまりにも高橋エリオットのそれと似ていたせいかもしれないし、台詞を聴いてようやく『マーキュリー・ファー』を見ているのだという意識が覚醒したのかもしれないが、とにかくそんな風に目の前の出来事にオーバーラップするように記憶が蘇ってきたのは初めての経験だった。吉沢さんがどこまで意図していたのかは分からない。ただ不思議とあの第一声によって、前回よりも格段に広くなった会場にどこかソワソワしていた意識が一気にあのフラットに引き戻されたような気がした。
 言葉の力を最も感じたのは、「ものすごく愛してる、だから」から始まるあの印象的なやりとりだ。それは『互いの存在を確認し合う呪文 激しい痛みを伴う愛情の言葉』*2で、止むことなく吹き荒れていた言葉の嵐の隙間から、そこで初めてこの兄弟の愛のかたちを目撃する。
 
ものすごく愛してる だからお前をつかむんだ
ものすごく愛してる だからお前は悲鳴を上げる
ものすごく愛してる だからもっと蹴ってもっと殴る
ものすごく愛してる だからお前は血を流す
ものすごく愛してる だからお前をこの手で殺す
 
 ところでこの一連の台詞のなかに、[ I love you so much I could burst into flames. ] という一節がある。スクリプトの献辞にも引用されている象徴的な一節だが、この部分の訳はかつて「ものすごく愛してる 炎に焼かれても構わない」だった*3のが、今回は「ものすごく愛してる 炎になって燃え上がる」に変わっていた。その自己犠牲的な響きが、弟を護ることに必死な高橋エリオットのキャラクターや、胡蝶之夢よろしく常に夢と現実のはざまを彷徨っているような瀬戸ダレンの存在感と強くマッチして強く印象に残っていたので、変わっていたことに驚くと同時に、これがこの二人の愛のかたちなのか、とも思った。愛には無数のかたちがあるというのも、この作品が教えてくれることの一つである。この二人の愛は自ら燃え上がり、互いを焼き尽くすような愛なのだ。そうした苛烈な愛で、目をいっぱいに見開いて、互いの存在を確かめあう。言葉と身体による抱擁は、絶え間ない痛みが降り注ぐこのクソッタレな世界で、確かに二人を繋ぎとめるものだから。
 
 やはり今回は、吉沢亮北村匠海の両役者がどんな風にあの兄弟を作り上げるのかに一番期待していた。この作品を通じて関係性を築き、今なお兄弟のような交流を続ける初演の二人と異なり、年齢も近く兄弟役も初めてでない二人だが、きっと吉沢さんとたくみにもこの作品を通じて初めてぶつけあえた感情や改めて確かめられた信頼があるのだろうと勝手に思っている。  
 
 吉沢さんのエリオットは、前述したように高橋エリオットのそれに酷似していた。ただしそれはあくまでエリオット像というかアプローチの話で、実際の存在感や表現とは別のものである。吉沢さん自身あの初演を目撃し、この作品に並々ならぬ思い入れを抱いて臨んでいることは重々承知しており、その所信表明を読んで1年間想像を膨らませてきた私の期待を裏切らないものであった。あの日自分が受けた衝撃を倍以上にして返すのだという心意気は至るところで感じられたし、あの衝撃を彼独自のやり方で舞台上に顕現させたのだと思う。吉沢さんのエリオットは目力も語気も鋭く、終始キレ者の雰囲気を漂わせており、苛立ちと悲しみの表現が素晴らしかった。エリオットは、誰もが凄惨な過去や目の前の辛い現実から逃れるためバタフライを口にするあの世界で、ただ一人正気を保ち続けている人物である。声を震わせながら来るべき最悪の未来に向けた決断をローラに吐露する場面では、その迸るような痛みが伝わってくるようだった。弟を一度は見捨てたこと、狂ってしまった母親から目を逸らし続けていること、父親が家族を殺そうとしたこと、黒いバタフライ。過去の幸せな記憶を忘れることも未来の恐怖から逃れることもできないまま、ずっと細い糸の上を渡るような緊張感の中で生きている。高橋さんのエリオットはやはり年相応に大人びていたが、吉沢さんのエリオットは同じような神経質さの中にも19歳*4らしいナイーヴさを併せ持っているように見えたし、ナズを必死に手当てする姿からは、彼の冷酷さは愛する者を守るための武装でしかなくて、彼がこれまで汚してきた手のことを考え切なくなった。だからこそ、そんなエリオットが時折ダレンに見せる穏やかな表情や、暗闇の中の光を見つめるようなローラへの眼差しは殊更美しく見えた。
 
 一方でたくみのダレンは、エリオットへの愛情表現が本当に素晴らしかったように思う。いつも自分のそばにいた兄、エリオットに必要とされたいし何でも話して欲しいし愛して欲しいし愛してるって言って欲しい。バタフライで気持ち良くなることと同じように、そんな原始的な欲求がダレンの中にはずっとあって、エリオットの愛情を、家族の存在を肉体と言葉で確かめることに常に飢えている。父親から殺されそうになったことすらもダレンにとっては愛情で、「もうそんな愛はどこにもないんだよ!」という悲痛な叫びが今も耳に残っている。その切ないほどの渇望が可愛くて可愛そうで、初演の時はエリオットにとても感情移入してしまったけど、再演ではダレンについてものすごく考えてしまった。特に印象に残ったのは、ごっご遊びでアウトロージェシーを演じた時の雰囲気の切り替え方である。私はDISH//としてステージに立つ彼にも時折、「歌ってる時も芝居してるみたいだなあ」という感想を抱くことがあるのだが、この人は演じることに対する気負いみたいなのをまったくこちらに見せない。北村匠海からダレンへ、さらにダレンからジェシーへ、そうした神経の繋ぎ方が非常にシームレスである。それは記憶を保ち続けているが故に精神が不安定なエリオットとは異なり、思い出したいものが思い出せなくて急にイライラしだしたり、かと思えば唐突に色んな事を思い出しては話題を変える、そんな情緒の浮き沈みも巧みに表現していたように思う。ジェシーが最後にうめく、「へその緒みたいにまとわりつきたくはなかったんだよ…」には、年の近い兄弟特有の感情が滲んでおり、間違いなくダレンの本音だと感じるものがあった。たくみのダレンは、ふとした瞬間にバタフライ漬けじゃなかったらエリオットと同じくらい賢いんじゃないかと思わせるところがあって、そういう弟だからこそ目が離せなくて大事にしたくて、エリオットがバタフライを与えてしまうのも分かる気がした。
 
 吉沢さんにしろたくみにしろ、感情表現がとにかく画になる役者であることは間違いないので、そんな二人の熱演が観られて幸せだと思う反面、やはり今回もとても疲れた。この舞台はなにしろ、登場人物すべての感情が2時間半嵐のように吹き荒れていて、観客はその只中に身を晒し続けるしかないのだ。見ているだけでこんなに消耗するのだから、演者の苦労はいかばかりかと思う。加えてこのコロナ禍で、明日も無事に幕が上がるか分からない緊張状態も毎日続いている。そうしたこともあってか、今回のカンパニーでは、全体的にキャストの連帯感をより強く感じた。キャストのほとんどが初演を客席で体感していたこともあって、いわば全員が同じ痛みを共有しているようなもので、それは役柄の関係性ともどことなくリンクする。スピンクスとローラも初演とはまた全然違う印象を受けた。私は初演の非情なスピンクスや毅然としたローラがとても好きで、エリオットとローラの大人っぽい関係性や、二人とエリオットとのドライなようで湿度の高い関係性もとても好きだったので、侠気に溢れる加治くんのスピンクスや、優しさに溢れた宮﨑くんのローラにやはりエリオット同様年相応のナイーヴさを感じた。しかしそれゆえにより共感しやすく、物語の本質的な部分が見えやすくなっていたように思う。
 そして、忘れてはならないのがナズである。ナズは非常に重要な役どころで、前回も一番ナズのことを引きずった。小日向さんのナズは10代にしか見えなくて(実年齢知ってひっくり返った)屈託がなく、あっという間にあの4人の中に溶け込んだ。しかしその存在のもつ役割はあまりにも大きい。ナズという存在は、人間の獣性への問いそのものだ。ナズを人の身体をした牛とみなすか、牛の頭をした人間とみなすか…。結果として、ナズは人の身体を持つ牛とされ、人の手でミートフックに吊るされた。しかし守りたいものに危険が及ぶ時、果たしてその選択を避けられるだろうか?
人は悪意や自分の利益のために大量の人を殺せない。むしろ善意や大義を燃料とする時にこそ、愛する者を守ろうとする時にこそ、他者への想像力を失い、とても残虐になる。-森達也著『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』
 パーティープレゼントやナズを牛にするしかなかった彼らの悲しい原動力は全てこれに集約される。あんなに優しさに満ちたローラでも、子どもを血に染めるパーティーに加担し、豪胆なスピンクスでさえ、迫りくる現実の前には膝をつくしかない。宮﨑くんがコメントしていたように*5、初演の時はただただこの世界の痛みと、その対処療法として日夜行われる暴力があまりにも凄惨で、それがノイズとなって見ることができなかったものがある。それは登場人物の全てにへその緒みたいに絡みついている愛だ。スピンクスとローラ、ここにも弟を守る兄の姿があり、エルやダレンが面倒を見きれない姫へのスピンクスの献身、「ローラのような女」を愛してくれるエリオットへの信頼、兄弟たちを命がけで守り、今も愛し続けるお姫さまの愛情。この世界にはどうしようもなく惨めで、それでも引きちぎれない愛がずっとまとわりついていて、そうしたもの一つ一つが私たちをこの世に繋ぎとめているのだということ。大好きな時も大嫌いな時も愛してる。家族とはそういう存在なんじゃないかと思うのだ。
 
 そこで改めて、この作品で感じた「言葉の力」に立ちかえる。
 リドリー曰く、『マーキュリー・ファー』というタイトルは、言葉の神である「Mercury」と、私たちを包む言葉の「Fur」を指しているという。演者はこの公演を通じて自らをこの物語と言葉の中に包み込み、そうしたものこそが本質的に我々を保護する層であり「Fur」であるというのだ。

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 つまり、登場人物も観客も、あの場の全てが言葉の中に呑みこまれ、言葉によって包まれる体験こそが『マーキュリー・ファー』なのだ。言葉によって傷つきながらも、言葉によって守られる。無責任な言葉、空虚な言葉が溢れかえる世の中で、この作品の言葉は全て切実で、血を流すような思いで相手に刻みつけるもので、それによって生を認識し、愛を実感する。
 ラストシーンで、ダレンはもう一度エリオットにあの言葉をねだる。ものすごく愛してるから、だから二人ならなんだってできる。ずっとそう確かめあってきたはずだった。燃え盛る炎のなかでダレンは叫ぶ、「ものすごく愛してる」。でもエリオットだって叫んでいるのだ。銃口を頭に押し付けて、「だからお前をこの手で殺す」。殺すことだってできる愛は、今日まで確かに二人を生かしてきたものだ。ダレンを愛しているからこそ、エリオットは辛くても正気を保つことができた。来る日にその引き金を引くために。そして轟音と暗闇、一瞬の閃光。エリオットの愛がダレンを貫いたのか、それは誰にも分からない。
 
 終演後、Climb Every Mountainを聞きながら、様々な思いが渦巻いた。初演の時はナズ役の水田さんが深々とお時儀をするのを茫然と見つめながら、ナズ生きてる;;;;;と涙を流すことで精いっぱいだったが、今回私の中に満ちていたのは、この作品のことをより深く知ることができたという確かな満足感だった。
 
 私は初演の感想として、「舞台上の出来事なのに、他人事でいさせてもらえなかった」と書き残していた。それは今思うと、トラム特有の閉塞感も大きく関係していたように思う。しかし今回は精神的な距離がぐっと近づいた気がした。自分自身が成長したこともあるし、イギリスでの経験を経て世界を見る目は大きく変わった。
 この7年の間に世界全体で右極化が進み、紛争の火種は燻り続け、今まさにウクライナ国境付近では侵攻が始まろうとしている。*6未曾有のウイルスや気候変動がもたらす危機は、富める者がより豊かになり、貧しい者がより飢える世界のひずみを浮き彫りにした。今日も世界のどこかで誰かが死んでいる。私たちはただそれを見ていないだけで。
 パンフレットで白井さんも言及されているように、リドリーはこの荒廃した世界に、戦争と略奪によって領土を拡大し国を豊かにしてきた自国への痛烈な批判を滲ませている。「まるで誰かが作ったみたいに」シンメトリーなバタフライは、誰かから誰かへの明確な殺意を宿した生物兵器だ。こんなにも恐ろしいのに、そのモチーフの美しさが、この作品をただ血なまぐさいだけではない何かに仕立てているように思う。そんな世界でダレンが言う、「ミノタウロスがもし人間だったら、話し合って一緒にラビリンスを出られたかもしれないんだ」という言葉は、その言葉を遮らなかったエリオットにとっても、あの場に居た誰にとっても、切実な願いであるはずなのだ。
 これはエリオットとダレンという兄弟の物語で、いつか訪れるかもしれない未来の話、でも今も世界のどこかにある誰かの物語。
 
 観劇を終えて、初演を見た時からずっと心に残っていた、この作品をより深く理解したいという飢えにも似た感情が満たされてしまったのが少し寂しいような気もするが、それはそれとしてやはりいつでも大きなものを奪い、与えてくれる作品だと思った。だからもしまた上演されることがあるのなら、私は怯えながらも足を運ぶと思う。その時の世界がどうなっているか、私がどう感じるのかは分からない。だが2022年にこの作品を見た全ての人の心に確かに何かが刻まれたと思うし、その痛みがやがて時の肉に埋もれてしまうとしても、この作品を今この時代に届けてくれた全ての人に感謝したい。
 公演も大半を終え、残るは地方公演のみとなりましたが、引き続きキャスト・カンパニーの皆さんが心身ともに健康で、最後まで公演を届けられることを心よりお祈りしております。

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2020年8月、イーストロンドンにて撮影

*1:2021年2月の記録参照

*2:白井さんによるパンフレットコメントより

*3:ような気がする

*4:戯曲の設定ではエリオット19歳、ダレン16歳

*5:パンフレット参照

*6:2/23時点。戦争はもう始まってしまった