being at home with Claude -クロードと一緒に-

昨年青山円形劇場初演(相馬・伊藤ペア)を観て以来、ずっと心の片隅にあった作品。素敵な役者さんに出会ったとき、誰かと演劇の話をするとき、円形が閉鎖されたとき、何かにつけてこの作品のことを思い出さずにはいられなかったので、再びこの舞台が見られることをとても楽しみにしておりました。




行ったのは4/22、折しもこの日はCyan(刑事:山口大地さん、速記者:唐橋充さん)千秋楽。
初演は「彼」と「刑事」がダブルキャストでしたが、今回は「彼」を固定で刑事と速記者がスイッチング。作品自体の難しさに加えて、この試みはとても挑戦的で、全てのキャストにとって戦いの日々だったと思う。
場所はシアタートラム。今回で行くのは二度目でしたがかなり好きな劇場になりつつあります。トンネルのような入口や鏡張りの通路が異世界感。夜しか行ったことがないので余計にそう思うのかもしれない。
セットは初演の時と同じく大きなドアが印象的な執務室で、客席はセットの側面と正面に席を配置した凹型になっており、私は舞台と平行に座っていたのでキャストも主に正面から見てました。そういえば今回はほとんど横顔を見ることがなかったな。初演の時はほぼ横顔をみる形だったので、終わってから気がつきました。

冒頭でも述べたけど、今回の再演は本当に本当に楽しみだった。再演が決まり、キャストが発表され、もう円形で観られないことを寂しく思いつつそれでもずっと心待ちにしてきたのは、初演の時に受けた衝撃をもう一度味わいたかったから。終演後襲い来るぐったりとした疲労も含めて、もう一度あの世界に浸りたかった。そして早く「彼」こと、イーヴ(演:松田凌さん)に会いたくてたまらなかった。
私の中に相馬イーヴがいたことは確かだけど、松田イーヴにそれを望んだわけでも、まして舞台上でその面影を探したわけでもない。だけど、ドアを乱暴に開けてまっすぐに判事の机まで歩いて、受話器を手に取り椅子に腰掛けたその後ろ姿を見て瞬間的に「彼だ」と思った。何がそう思わせたのか、決定的なものは分からない。だけど多分、あの後ろ姿がすごく寂しそうだったからだと思う。

松田イーヴは、全くといっていいほど松田君を感じさせないイーヴだった。イーヴを取り込んでいるのか、イーヴに塗りつぶされているのか。と同時に、イーヴと松田君がこちらでは判別つかないほどに混ざりきっているのかもしれないなとも思った。その上で、松田くん自身を保とうともがいているような烈しさも時折感じた。
これは私が松田君のパーソナルな部分をほとんど知らないというのも大きいので、観た人によって解釈が分かれるかもしれない。舞台上の松田君からは、あれだけ削られる芝居をやりながら、まだ何か秘めているものがあるのではと感じさせる底知れなさがあった。彼の「彼は僕を通り抜けた」という台詞の言い方が好きだった。託宣のような、譫言のような短い台詞なんだけどあれを聴いて松田君のイーヴは聡いイーヴだったのかな、という印象を受けた。きっと気遣いも細やかで、分別があって、そんなイーヴがキャンドルの灯りも素敵だけど、君の顔をもっとよく見ていたいから電気もつけていい?アホみたいかな?と大まじめに訊くさまは、クロードにとってどんなに愛おしい瞬間だったろうと思う。

相馬イーヴは、持ちうるもの、全ての引き出しを開けてイーヴに捧げている感じがあった。捧げていると言うより費やしているという方が受けた印象としては正しい。イーヴに近づくため、イーヴの心に触れるため、自分の肉を削り魂を少しずつイーヴの形にすり減らしているような凄まじさがあった。刑事を見る目は警戒心が強かったし、ふらつきながら叫ぶ姿は、愛に傷つき、疲れ、怯えていた。終盤、怒濤の長台詞を吐き出している姿は、命を燃やしているようでこちらが少し心配になるほどだった。
終演後、彼がブログに綴った「多くの人に裸を見られた」という言葉がすごく印象に残っている。それは私が舞台上の彼に抱いた感想と全く同じだった。今まで見たことが無かった姿を見てしまったと思った。舞台に立つ以上、何かしらの役を身にまとっているはずなのに、そして相馬さんのこと自体、深く知っている訳でもないのに、それなのに、なんだか彼の一番深いところが、秘められていた場所が晒けだされていた気がして、焦燥めいたものが全身を包んで、ひどく疲れた。どうやって受け止めればいいのかわからなくて途方に暮れた。ひどいことをしてしまったとすら思った。松田君のイーヴにはそういう気持ちは抱かなかったけど、だからといって軽かったとかでは決して無く、相馬さんとはまた別のアプローチで彼にしか作り出せないイーヴを作り上げたからこその感触だろうなと思う。返す返すも本っっ当に前回稲葉イーヴを観に行かなかったことが悔やまれてならない…。何故行かなかった。臍を噛むとはこのことですね。去年から事ある毎に噛みまくってるのでエアー臍がもうボッソボソだよ。

この舞台を見た後の疲労感は独特で、それは怒濤のような台詞による情報量の多さや役者が命を削って演じているその熱にあてられるというのもあるけど、無意識にイーヴに対してエンパシーを感じているからだと思う。イーヴのことを「分かりたい」と思うか、「分からない」と思うか、「分かりたくもない」と思うか、どういう思惑でいたとして、あの独白を聴いている時の意識はピンで留められたようにイーヴから逸らせない。それは観客だけではなくて、刑事も速記者も同じ。
刑事は若く優秀で、とても「真っ当」である。ゲイでもなければ犯罪者でもない。刑事から見ればイーヴは異端であり、理解するに値しない社会のクズだ。最初こそ激しくイーヴを詰り、軽蔑しているが、次第にイーヴの声に耳を傾け、あの30分以上にも及ぶ長い独白に口を挟まず黙って聞いてやる。速記者は直接取り調べを行う刑事よりもう少し外側の存在ではあるけれど、自らの職分を忘れるほどに独白に聴き入る。全てを知って何を思うか、それは各々の受け取り方の違いだと思うのでどれが正解でもないんだろうと思うけど、私はクロードとイーヴの間にあったものを美しいなあと思った。真偽を疑うことも、是非を問うこともしたくないしできない。その行動がどんなに不可解でも、イーヴは狂っていないと思うしあの告白が偽りだとは到底思えないのだ。
殺して、でもまだあの人がどこかにいるような気がして、電話をかけて、繋がらなくて、その事実に気が狂いそうで、電話線をひきちぎって、ドアベルをむしり取って、40もの電話ボックスを通り過ぎて、フェンスに座って、カーテンのない部屋の中で眠ろうとして寝つけなくて朝が来て、「だって、腐っちゃうから・・・・・・」、それで諦めて、電話をかけた。その気の狂いそうな数日間のこと。
最早感覚でそう思うのか理性でそう判断しているのか分からないけれど、私はイーヴの愛しているから殺したという行動に矛盾を見つけられない。愛しているから殺した、でもないな。殺すという結果も含めて彼はただ、愛した。それだけだと思う。

どうしたって即物的な世の中なので、目に見えないものを説明するというのはとても難しいと日々痛感している。今だってぐだぐだと書き連ねているが、結局自分の受けた衝撃にはほど遠い。自分の言語力に限界を感じると、語り得ぬものには沈黙するしかないとつい諦めてしまうけど、この作品を見るとその考えが少し改まる。闇雲でもなんでも、伝えようとする努力に価値がないとは到底思えないからだ。そのくるおしいまでの切実さが胸を打つ。あの人の優しさ、してくれたこと、出会って触れあって自分の中に起きた感覚、芽生えた感情、それらは全て確かなのに、言葉にしようとするとたちまち陳腐なものになってしまう。そのもどかしさに焼き焦がされそうなほど苦しんでいる姿に胸を締め付けられるし、イーヴが必死に伝えようとしている何かを感じたい!と思ってしまうから、すごく疲れるんだ、このお話は。

あそこで私たちはイーヴと、イーヴを通してクロードに出会うのだ。その体験はそれこそ、言葉にならない感覚だと思う。あの繊細で複雑で今にも壊れそうで目まぐるしくて目が離せない、嵐のようなまっただ中に身を置いて、感じるしかない。怒濤のような台詞を台詞だと思わず、ただ目の前の人間の奥深くからあふれ出す告白として感じられた瞬間そこは一瞬でモントリオールになるし目の前には「彼」が現れる。この感覚こそ、私が欲するもの、劇場に通う理由に他ならない。終演後も肌にまとわりつく緊張感と閉塞感と倦怠感、あの気の狂いそうなモントリオールの36時間は、決して記録に残せないものだ。
アンケートにはもちろん、「再演希望」と書いた。
願わくばまた「彼」に会いたいから。そして多くの人にこの物語を目撃して欲しい、と思っている。